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風色時間

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傘の向こう

 


無くしてから振り返って
贅沢な時間だったのだと気付いても遅いのだ。


幼い頃、私は日中の殆どを母の姉である叔母の店で過ごしていた。
単線の小さな駅から続く古い商店街の、果物屋の隣に店はあった。
こじんまりとしたその店は、叔母の縫う袋物と履き物、傘を扱っており、
普段は卸問屋で傘職人をしている叔父がその修理も請け負っていた。
商品の並ぶ広くはない売り場の奥で叔母はいつでもミシンを踏んでいた。
その更の磨り硝子の引き戸の向こうには簡易な炊事場が有り、
建物の構造上、日の差さないその場所は昼間でもいつも薄暗くて
まだ幼かった私には少しだけいつでも怖かった。
極度に人見知りであったらしい私は
店に客が来る度に怯えて泣いたことも多かったそうで
商売にとっては甚だ迷惑な存在であっただろうが
私の記憶に微かにあるのは困ったように優しく笑う叔母の暖かな手のひらだ。
何時だったか強請って店の棚から下ろしてもらった、
歩くと踵で音の鳴るサンダルが大好きで、それを踵で鳴らしながら
私は叔母の店や隣の果物屋や、その更に先の花店などで
たくさんの人達に構ってもらっていたように思う。
幼稚園に上がる年に私の家族は隣県に引っ越し、叔母の店で過ごす毎日は終わったが
それでも夏や冬の休みには、決まってそこに行っていた。
大きくなったねとそのたびに頭を撫でてくれる人達と、
昨日もそこにいたように当たり前にいつでも迎えてくれる叔母が大好きだった。
家族の都合の合わない休みの時でも、一人電車で行ったことも何度かある。
自慢できるほどに方向音痴で内弁慶であった私が、唯一出来る遠出がそこだった。
もっとずっと時間が経って、背が伸びることもなくなってからも
私はその店が好きだった。
そう言えば大学に入り、家を出て独り暮らしをしている頃に
ちょっとした壁に突き当たって、ふらりとその商店街のある小さな駅に降りたことがある。
久しぶりだけれど目を瞑ってでも歩けるほどに慣れ親しんだ道をゆっくりと歩き
叔母の店の前まで行った。
耳を澄ませば、相変わらずのミシンの音が奥から微かに聞こえていて
そっと立ち止まってひとつ深呼吸をした。少しだけ涙が出そうになった。
それでも『大丈夫』、なんだかそんなふうに思えてそのまま店を通り過ぎた。
そんな自分がきっと少し照れくさくて、足は裏通りに進み、
季節外れの桜並木をちょっと眺めて、それからまた駅に向かったのだ。
そして
結局そのことは誰にも話さなかった。


叔母は昨年鬼籍に入り、叔父は叔母のいなくなった家で一人暮らしているという。
この年になって洗濯機の使い方を覚えるとは思わなかった、と
四十九日の法要で少し寂しげに叔父は笑った。


基本的に傘は買うものではなかった。
手元にはいつでも叔母の店の傘や、叔父が張ってくれた傘があった。
大好きだった小さな店はもうあの商店街にはないけれど
私の手元には叔父の傘が三本有る。
そのうちの一本の、生地を選ぶ時に
『これがいいんじゃない?』と、見立ててくれた叔母の声を覚えている。
大学の卒業祝いに作ってもらった紺地のそれは
持ち手の部分がいい具合に飴色に変わりつつあって、最近では
あまり激しい雨では水漏れが出始めたので登場の回数は減ったけれど
今日のような小糠雨程度ならば十分に活躍してくれる。


傘があるから、私は雨は嫌いではないのだと
どことなく気分が塞ぐであろう雨続きでも笑って過ごせてきたのだと
鈍色の空を振り仰いで今思っている。
秋に差し掛かったこの街はもう肌寒いけれど、
傘を差して家に帰ったら
少し暖かくして
叔母の好きだったアイスカフェオレを、飲もうか。



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